関東平野の西の端、まもなく多摩や武蔵の山が始まる麓、関東の人が沈む夕陽を見て「あぁ今日も一日が無事に終わったな」とか「夕焼けがやけに綺麗だな(夕焼けだけに・・・)」
〜「夕焼け」と「やけ」をかけた わかりにくいダジャレです。許してやってください〜
とか思う所(埼玉県日高市付近)に1300年前から高麗郡(こまぐん)だった所があります。
今は高麗の郷として高麗川の清らかな流れに魅せられて個性ある(ありすぎる)人々が・・
多く移り住んでくる、都会から一番近い大自然のある地域となりました。
この高麗の地の歴史を東京から移住して30年の自称ミュージシャン(やっぱりか)山口じゅんが紹介します。
地元の重鎮、高麗神社60代宮司高麗文康(こまふみやす)氏の突っ込み・・
もあります。
高麗郡建郡以前は?
「歴史」と言っても色々な切り口があるし、私は歴史の専門家でもないので軽い読み物になってしまいますが、よろしくお付き合いください。
ザックリ建郡あたりの歴史です。
「石器時代」紀元前1~2万年より前。
「縄文時代」紀元前500年頃まで。「弥生時代」200年頃まで。「古墳時代」200年以降。「飛鳥時代」500年頃から。そしていよいよ716年この地に高麗郡が建郡されます。
良い子はこれで歴史を覚えないようにしましょう。
歴史って言うと営々と人々の暮らしが営まれ、その中である時は「入間郡」そして「高麗郡」となめらかに変化していく場合もありますが、この地ではある日突然、高麗郡が成立します。縄文時代にいた人たちが姿を消し、弥生時代から飛鳥時代まで空き家(表現はともかく、苦笑、長く空 閑地であったことは事実のようです)となったこの地に忽然と高麗郡が成立します。
関東周辺に住んでいた渡来人の高麗人1799人が集められたのです。
というのは考古学でこの地の発掘調査から、「縄文時代」までは遺跡が発掘されるのですが、そのあとの「弥生時代」紀元前500年頃から建郡の716年頃まで遺跡が発掘されません。その理由はわかっていませんが。縄文時代は温暖化で高麗の地域は豊かな森が広がり縄文人は狩猟生活をしていた(この時代は縄文海進と言って東京湾が川越付近まで来ていた)ようです。
私は、この建郡の様子を奥武蔵の地に或る日突然「古代のシリコンバレー出現」と勝手に想像を膨らましています ^_^。
高麗宮司から建郡についての説明です。
重隅(じゅうすみ)さん(コラム筆者ペンネーム)からの無茶ぶりされた、高麗神社宮司の高麗です。
現在の日高市と飯能市に高麗郡が置かれたのは霊亀2年(716)5月でした。
日本の正史を記した『続日本紀(しょくにほんぎ)』には「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く(書き下しは筆者)」と高麗郡の始まりが記録されています。
重隅さんの説明にもあった通り、高麗郡建郡以前の当地は長く人が住んでいない未開地でした。遷り住んだ高麗人達は茫漠たる原野を前に何を思っただろうと想像してしまいます。
しかしながら、高麗郡建郡による未開地開拓に期待していたのは、建郡の主体であった大和朝廷だけではなく、旧高麗郡域周辺に先住していた人々もおなじでした。東国各地からやってきた高麗人たちは先住の人々の支援を受けながら数十年にもわたる開拓に従事しました。
高麗神社の伝えによれば、この高麗人達を率いるため高麗郡の最初の郡長になったのが高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)でした。若光は卒後、高麗神社に祀られますが、その話はまた今度としましょう。
次回は高麗郡建郡前夜日本に移り住んで来た渡来人の本国、朝鮮半島の様子です。
昭和40年代生まれ/埼玉県日高市出身・・バブルに浮かれ危うくドロップアウトしかかるも、絶妙なバランス感覚で持ちこたえ、なんとか高麗神社の神主となる。合気道5段。
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