NHKの大河ドラマ『晴天を衝け』は言わずと知れた埼玉の偉人渋沢栄一の物語である。
その栄一が士分として一橋家*に仕えた頃、名を篤太夫(とくだゆう)と変えたこと、従兄の成一郎*と一橋領内を巡り募兵を行ったことも「放映済み」である。
篤太夫らが仕える一橋家は御三卿の一つで、高い家格を誇るものの手勢は無い。各地で動乱が頻発するこの時期に、禁裏御守衛総督*に任ぜられた当主慶喜は、自前の兵力が必要であった。このため篤太夫と成一郎は命を受け、血気ある若者を募る為、領内を巡ったのである。
御三卿の一つ。8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)四男宗尹(むねただ)を祖とする。宗尹は1735年(享保20)元服して徳川を名のり、40年(元文5)江戸城一橋門内に屋敷を与えられた。この屋敷を一橋屋形(やかた)と称したことから一橋家とよばれる。ついで1746年(延享3)には兄田安宗武(たやすむねたけ)とともに10万石の領地を給せられ、将軍の家族の一員として待遇された。
江戸時代末期(幕末)に幕府の了解のもと、朝廷が禁裏(京都御所)を警護するために設置した役職である。 任命された徳川慶喜は、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮(せっかいぼうぎょしき)という役職にも同時に任命された。
『旧高旧領取調帳 関東編』(近藤出版社)によれば、江戸時代末期の日高市内の一橋領は概ね、梅原村、栗坪村、清流村、高岡村、高岡新田、新堀村、平沢村上組、同中組、同下組、田波目村、横手村であった。
筆者の高祖父(五代前)高麗大記は文政8年(1826)生まれ、家督相続から52年にわたり『桜陰筆記』と称する日記をつけていた。それによれば、文久4年(1864)6月2日村の寄り合いで、一橋家から役人が派遣され武術心得があるものを取り調べる旨が通知された。その11日後、一橋の役人として当地にやってきたのが渋沢篤太夫、渋沢成一郎であった。
6月13日梅原村に着いた両人は募兵に付き村々の面立ちに相談を始めたらしく、大記も15日に面会した。面談は自己紹介から始まったのだろう、篤太夫は自作の漢詩を見せた。大記はその出来栄えと筆使いを絶賛し、更に数時間話し込んで、両人を「天朝家(尊王家)」「丁寧之人」と評した。
52年に及ぶ日記の中で、大記がここまで賛美した人物はいないと思う。
まして相手方は、武士とは言え一回り以上年下の20代半ばの若者達なのである。
この後、大記は方々へ「英士(兵士)」につき相談をした。7月30日篤太夫は新堀村に滞留し英士募集に応じた2名に面会したが、この2名は家族と相談の上、辞退している。大記はそれを京の動向が不穏だからだろう、と推測した。
翌2日篤太夫は、梅原の甲源一刀流比留間道場へ赴き、一橋家剣術教授方肝煎比留間国造と試合をした。篤太夫は仕官前から剣術を修めており、江戸遊学では北辰一刀流千葉道場にも通った。腕に覚えがある、ということか。大記は早朝から比留間道場へ出掛け、自らも篤太夫と剣を交えた。
ところで、肝心の「英士」募集の件は、この比留間道場の門人小川椙太(おがわすぎた)が推挙された。結局、当地からの推挙は小川1人だが、当地の面立ちは「小川1人で10人にも勝る」と説得し、篤太夫を納得させた。
大記は市井の宗教者に過ぎないが、その人柄は思慮深く簡単に時勢に流されたり、相手方の立場におもねることはない。その大記をして感嘆せしめた渋沢篤太夫は20代にして既に大器の片鱗を見せていたのだろう。
渋沢栄一に関する研究や著作は数多ある。しかし、その中に当地との関わりを記すものは無いに等しい。
地域に残る古文献だけが、この邂逅(かいこう)を生き生きと語るのだ。
▼高麗宮司による連載第一回目
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