皆さん、こんにちは/こんばんは(選べる(^^♪
5ヶ月ぶりの再会です。またもや関東平野の西端日高市よりお届けします。
第二回目にして、早くも締め切り大幅遅刻の重隅じゅん(←高麗宮司命名)こと山口じゅんです。
更に、あまたの文豪も感じたであろう締め切りの重圧を自身に重ね、文豪気取りになっている中年妄想族の山口じゅんです。
前回は、建郡以前から建郡の頃の高麗郡の様子を詳しく詳しく解説しました。今回はそのころの朝鮮半島の様子です。と言いつつも、わたくし山口じゅんは専門家ではないので軽く読み飛ばしてください。
▼第1回をまだ読んでない人はどうぞ
《高麗の歴史》2020シーズン 第1回「イントロと高麗郡建郡以前」
関東平野の西の端、まもなく多摩や武蔵の山が始まる麓、関東の人が沈む夕陽を見て「あぁ今日も一日が無事に終わったな」とか「夕焼けがやけに綺麗だな(夕焼けだけに・・・)」 〜「夕焼け」と「やけ」をかけた わかりにくいダジャレで…
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本題の前に読み方が難しい埼玉の地名
あっ!
第1回目から「高麗」とか「高麗郡」とか出てきますが、「こま」「こまぐん」と読みます。
地元では当たり前田の・・・に読めるのですが、初めてだと「こうらい」と読む人も多いです。
「こっぐりょ」なんて読んだあなたは「高麗郡通」を超えてます。
因みに高麗郡付近で読みにくい地名ベスト。
もちろん筆頭は「高麗」、そして「毛呂山」(もろやま)「生越」(おごせ)
(重隅の言い訳1→高齢化による変換ミス( ;∀;))
「越辺川」(おっぺがわ)、東京だけど近隣では「青梅」(おうめ)「福生」(ふっさ)などありますね。
私が住んでいるのは日高市猿田ですが「やえんだ」と読みます。
「野」がなくなっています。
高麗川にある「巾着田」も「きんちゃくでん」と読む人が多いですが地元では「きんちゃくだ」です。
あ゛~地名の話もおもろい・・・(^^♪。
高麗郡が成立する前について。
やっと本題。
今回取り上げるのは、高麗郡が成立した716年より前の中国大陸や朝鮮半島の様子。
で、今回の主役「高句麗(こうくり)」のお話。
今、中国の「三国志」が流行しているようですが、その頃の朝鮮半島でも「三国時代」と言われる時代が長く続き、今回の主役の高句麗が百済や新羅と覇権を争っていました。
高句麗は紀元前1世紀ごろ朝鮮半島北部に発生したとあります。
韓流ファンなら出れでも知っている「朱蒙/チュモン(東明聖王)」
卵から生まれた伝説の大王です。
卵から生まれたそのチュモンから始まった高句麗は、391年に広開土王(好太王)が即位し(歴史好きさんなら知っている広開土王碑←知らない君はググって見よう(^^♪)、勢力を広げながら南下を続け5世紀ごろには半島半分以上を支配する強大な国家となりました。
高句麗の広開土王の功績を顕彰するためにつくられた石碑。高句麗の丸都城近く、鴨緑江河畔に、414年に建てられた。三国時代の朝鮮半島の情勢を記した貴重な資料となっている。
出典:歴史の窓
勢力を広げた背景には騎馬民族だったり、その騎馬隊を組織運営する体制が備わってたことも要因とされています。
高句麗の滅亡
その後、繁栄を誇った高句麗も6世紀になると、今度は国内体制の動揺や唐と同盟を組んだ新羅によって、668年に高句麗は滅亡します。滅亡前には日本に助けを求め高句麗から多くの使節団が渡ってきましたし、それ以前にも中国大陸や朝鮮半島からは多くの人々が日本に来ていました。
そして、関東周辺に移り住んだ高句麗からの渡来人1799人が、719年に日高市周辺に高麗郡を建郡します。
(重隅の言い訳2→高齢化によるキーボドの打ち間違え(^^♪)
ところで、大陸や朝鮮半島との交流っていつ頃からあったと思いますか?
高麗郡建郡の600年代には盛んな交流がありましたね。
(重隅の言い訳3→高齢化によるイージーミス( ;∀;))
仏教公伝(正式に入って来た)もこの頃です。
青森の三内丸山遺跡の出土品で当時(五千年前/縄文時代)から交流があったのでは?と指摘する学者もいます。大昔から海を隔てて盛んな交流があったようです。
次回は、高麗郡が建郡したころの日本の様子です。
4649(^^♪
昭和40年代生まれ/埼玉県日高市出身・・バブルに浮かれ危うくドロップアウトしかかるも、絶妙なバランス感覚で持ちこたえ、なんとか高麗神社の神主となる。合気道5段。
▼高句麗の歴史をさらに学んでみる
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